色鮮やか。

都会っ子が地方ママとして子育てに奮闘するおはなし

中村哲さん

中村哲氏が亡くなりました。
残念でなりません。
(めっちゃ長いです。)

中村氏を知ったきっかけは母でした。
私が中高、部活をきっかけに対人関係に悩むようになり、学校という閉塞された社会の闇にまんまと飲み込まれ、
学校生活に嫌気がさしていた時期がありました。

そのおかげで怠けきった学校生活を淡々と過ごしていた時、母が唐突に彼の本を勧めてきたのです。
たしか夏休みだったような。
長期休みの時はたいてい、読書感想文を求められました。

私は、学校から求められる“良い子ちゃん”を教育する読書感想文が大嫌いだったので、いつも癖の強い本を読み、誰にも理解されなくていいから、いかに学校が嫌いかを述べるいい機会くらいの感覚で毎年提出していました。
その年も毎年のごとく、その本で学校批判でもしてやろうと読み始めたわけです。

結局どんな内容の感想を書いたかよく覚えていません。
でも、その彼の本をきっかけに学校という狭い社会しか知らない自分を情けなく感じた私は緒方貞子氏の講演会に足を運んだり、他にも社会を知れる場へ積極的に行くようになりました。

反抗期真っ盛りで口をきくのも嫌だった母と自分が世界でできることは何か、将来何になりたいか、そのためには何をしなくてはいけないかを、話すようになった気がします。

このことをきっかけに、弱者と呼ばれる人たちと対等な立場で向き合える環境に自分の身を置きたいなと漠然と思うようになり、自分の可能な範囲で活動を始めるようになりました。

初めて行動したのは高校生の時で、一人でタイに行って家を建てるボランティアをしました。この時代(まだ7年くらい前だけど)、ボランティアはただの自己満だとあまり周りによく思われず、高校の友達からも後ろ指さされることもありました。
しまいには、大学受験をAOで受けたこともあって、ボランティアするだけで受かるなんて裏口で頭悪い癖にずるいよねとまで言われたこともありました笑。

それでも、女子高生の私が、何も整備されていない他国の村に一人で行くことは並大抵の覚悟ではなかったし、帰国後は初めて日本国内の貧富の差を知って愕然としたり、今後生きていく上での自分の立ち位置を明確に夢、目標を持てるようになったり、得られたものはきっと、ボランティアをバカにした友達より多かったはずと胸を張れます。そのことが全く自己満とも思いませんでした。自分の行く末を考えられるようになったことは、将来だれかを救えるきっかけにもなると確信できたからでしょうか。

その後、大学の時はアルバイトで保育園で働く経験をしたり、他にも小さなことだけど中村氏のような大きな何かを成し遂げたり、できているわけではないけれど、積み重ね積み重ねで、今ふと振り返ると今まで出会った人の一人の人生の一瞬くらいは、幸せだと思わせることができているのかなと思います。

中村氏の武力より信頼関係、目の前の人を助ける、薬より生きれる環境の整備、さまざまな言葉を、自分のできる事柄に置き換えて、今後も常に社会の健全な発展と誰一人と無慈悲な環境で死んでいくことがない世界を日本の四日市の隅っこで少しでも貢献できるように、考え行動していきたいと改めて思いました。

(保育士試験、学科受かりました。夢の一つかなった。これでまた少し社会に貢献できるかな。そして二人目授かりました。子供たちを無償の愛で育て、母としての義務を果たします。25歳になりました。四捨五入して30歳です。あと60年、何ができるかな。)